クラシック

 

 

 

獄寺隼人は6歳の頃幸せだった。
城といえる美しい場所に住み、父や母、姉のビアンキも優しかった。
隼人は恵まれていた。
隼人は可愛らしかったから、両親やパーティーに訪れるお客様は、隼人を可愛がった。
隼人は頭もよかったから、勉強を教えてくれる人はいつも隼人を褒めた。
父や母に褒められると隼人は嬉しかったから、色んなことをがんばった。
その一つにピアノがあった。
楽譜の通りに指をすべらせると、やっぱりピアノの先生は、隼人を褒めた。
父はそのピアノを、来週のパーティーでお客様に聞かせようと言った。
隼人は嬉しかった。だからいつもよりがんばって練習した。
姉のビアンキはそれを見て言った。

がんばってね、隼人。わたしもがんばるよ。

グランドピアノの中で木片に叩かれる細い弦を見つめて、ビアンキは決意したようであった。
何をがんばるかは練習に夢中で隼人は聞かなかった。
何をがんばるかはパーティーの時にわかった。
初めてお客様に演奏を披露するということで、それなりに緊張していた隼人に、
皿にクッキーを乗せて、ビアンキは満足気に差し出した。

隼人のために焼いたんだよ。食べて。

ありがとう。

隼人がビアンキに礼を言ったのは、これが最後かもしれない。
食べたクッキーは、何だか、クッキーじゃない味がした。



 

 



演奏の時間が近づくにつれ隼人の顔色はだんだんと青くなっていった。
その時の気分の悪さときたら、脳みそが勝手にひっくり返ってしまったかのようだった。
とにかく気分が悪い。
ひどい吐き気と眩暈が断続的に襲ってきた。
三半規管がどうにかしてしまったのか、まっすぐ歩くこともままならなくなった。
船酔いでも、ここまで悪くなることはないだろう。
汗と、涙が、自然とにじみ出る。
幼いながらも賢かった隼人はその原因を知っていた。
初めてピアノを発表する隼人のためにビアンキが一生懸命に作った、クッキー。
だからいえなかった。
クッキーを食べたせいで気分が悪いだなんて、彼女の思いやりを無碍にするようで、言い出せなかった。
それに父は隼人の演奏をお客様に聞かせるのをとても楽しみにしていた。
気分が悪いから演奏を中止したいだなんて、とてもじゃないけどいえなかった。
ふらつく足を叱咤して、隼人はお客様の前に出る。
もちろん、普段通りに足が動いてくれるはずもない。下手な操り人形のようにおぼつかない動きで、隼人はピアノのイスに座った。
演奏を始める前に、父のほうをちらりと見た。
父は厳しい目で隼人を見ていた。満身創痍の隼人を心配するどころか、その異変にすら気づいていなかった。
期待の込められた父の視線に、隼人は軽く絶望する。
じわり、新しくにじんだ涙で視界はめっぽう悪くなるばかり。
どこの鍵盤がどんな音かも分からなくなった。吐き気と眩暈はとまらない。
この演奏が史上最悪のものとなることを理解して・・・・

ごめんなさい。

隼人は心の中で誰かに謝った。


 

 




実際、演奏は散々な物であった。
楽譜に起こそうとしてもどうにも無理なような気さえする演奏だった。隼人自身は数年後これを「この世のものとは思えない演奏」といった。
しかし。
彼の演奏に送られたのは拍手と絶大な賛辞だった。

ブラボーッ
すばらしい!
前衛的だ!

とうとう浅い呼吸を繰り返すようになった隼人に、この言葉は夢のようだった。
めちゃくちゃになると思っていた演奏会。
自分のいままでの練習すべてが無駄になり、父も失望すると思っていたのだ。
それがどういうわけかこの評価。
相変わらず吐き気と眩暈は消えてはくれなかったが、隼人はとても救われた気がした。
薄れた意識を無理やりに引き戻して父の方を見る。父は微笑み、拍手を送った。
最後の力を振り絞り、お客様に礼をして父とビアンキのほうへ向かう。
まだビアンキが持っていたクッキー。見たくもなかった。もう絶対に食べたくなかった。

こんどのえんそうかいのときは、ちゃんとれんしゅうしたきょくをひくんだ。

そう心に決めた、直後だった。

ビアンキ・・・またクッキーたのむよ。
はい。

二人の交わした会話に今度こそ本当に絶望した。

またあのくっきーをたべるの?
またくっきーをたべておきゃくさまのまえでなきながらぴあのをひくの?

目の前が真っ暗になる。
上機嫌な父は、最後まで隼人が苦しんでいることに気づかなかった。
その日の夜、隼人は部屋でこっそりと、泣いた。




 

 


それから8歳になるまでの2年間は、獄寺隼人にとって地獄だった。
パーティーがあるたびに、隼人は窓から飛び降りてどこか遠くに逃げたくなった。
それでも、結局は父の面子がかかっているため、ピアノの演奏からは逃げられないのだった。
人々の期待があり、父の期待があり、ビアンキはクッキーを食べてくれるという期待を隼人に持った。
一度も断れなかった。
クッキーを口に入れる瞬間から嘔吐感はやってくるのだが、それを我慢してクッキーを食べる。
すぐにやってくる、眩暈か、吐き気か、頭痛か、腹痛か、意識混濁。
それらすべてに耐えながら、パーティーの度に隼人は鍵盤の上をのた打ち回った。
まるで拷問だった。
演奏後必ず送られる拍手でさえも、彼を苦しめる要因でしかなかった。
褒められたって嬉しくない。
最初のあの日送られた賛辞のせいで、彼は今でもクッキーがもたらす痛みを受けなければいけないのだから。
どんなに普段優しくしてくれる人でも、拍手を送る姿を見た途端悪魔に見える。
父だって同じだ。
父はいつもビアンキと隼人を交互に見て、

次も期待しているよ。

そう言う。
荒い息をしながら、顔面蒼白で、そこに立っているだけでも必死な隼人に、そう言うのだ。
それが、どうしても隼人には信じられなかった。
父は自分を大事にしてくれていると思っていた。
なのに彼はグランドピアノを前にもがき苦しむ隼人を、いつも誇らしげな目で見ていた。

なんでこんなにくるしいの。
どうしてだれもくるしんでることわかってくれないの。

ピアノの演奏が終わっても、クッキーを食べたその日はずっと効果が続いた。
隼人は口に手を入れて食べたものを吐き出す方法をいつの間にか覚えていた。
パーティーの夜はいつも泣いていた。
パーティが近づくたびに悪夢を見るようにもなった。


それでも隼人は、ピアノの練習をやめなかった。
いつか隼人が一生懸命練習した曲を、彼の本当の曲を、父やお客様に評価してもらえる日が来ると信じていたのだ。
そんな希望を確かめるように、何度も何度も鍵盤を叩く。
隼人は自分の年齢に相応しい曲より、数段グレードが上の曲だって完璧に弾けた。
「この世のものとは思えない演奏」の何倍も素晴らしいものを弾けるという自信があった。
いつの日か、父か、ビアンキか、優しい誰かが、隼人が苦しんでいることに気づき、
初めて彼の本当の音色を聴いてくれる。
そう信じていた。



 

 



そんな日は獄寺隼人が8歳の時に訪れた。
ビアンキが家を出ることになったのだ。

さびしいわ、隼人。もうクッキーを焼いてあげられないんだね。

ビアンキは別れ際言っていたが、獄寺にとってその言葉は呪縛を解く呪文のようであった。

もう苦しまなくていいんだ。
今度こそ聴いてもらえるんだ。

練習中も嬉しくてたまらなかった。
とっくに指が覚えてしまった曲を、軽快に繰り返す。
拷問は終焉を迎え、地獄の出口は今見つかった。
ただ、気になったのはパーティーの前の日の父の言葉。

隼人、大丈夫か?

何だか分からないが、大丈夫に決まっている。
パーティー前に悪夢を見なかったのは、丁度2年ぶりだった。

 

 






パーティー当日、お客様の前で、初めて隼人はきびきびと礼をする。
お客様はいつも通り彼を褒めていた。父も期待していた。
そして、初めてその感触を確かめてピアノを弾いた。
流れるメロディが城に響き渡る。客がその音楽にざわついた。
この日をずっと待っていた。
隼人の中では、これが2年越しになる初めての発表になった。
なるはずであった。
しかし。

やめなさい。

父の声が聞こえた。
隼人は自分の心臓がどくんと鳴ったのを聞いた。表情が強張る。
演奏はやめなかった。父の命令に背いたのはこれが初めてだった。

いやだ、やめたくない。

頭の中で隼人は必死になって叫んでいた。
どんなに苦しんで耐えてきたのか。
どんなに父に自分が苦しんでいることに気づいて欲しかったか。
どんな思いで練習してきたか。
どんなにこの日を待ったことか!
思いを乗せて生んだ旋律は、ひどく悲しかったかもしれない。
しかしその思いは届かず、父は隼人に近づいて、小さな左手を掴んだ。
信じられない表情で父を見上げる。
父の目は厳しかった。

隼人、あの演奏をやりなさい。

声が出ない。手も振り払えない。
不必要な涙が、また瞳を覆った。
隼人の手の震えに、父は気づかないようであった。

それとも、ビアンキのクッキーがなければできないか?


がしゃあん


乾いた音が頭のどこからか聞こえる。
たぶん、隼人の何かが壊れた音だった。




 

 


父の手から自分の手をすばやく奪い取って、ピアノの蓋を力一杯閉めた。

ガァーン!!

そこに置いてあった父の手が、シとドとレとミの鍵盤と一緒につぶされる。
お客様が悲鳴を上げた。父が何事か叫んでいた。
それでも構わず、隼人は自分の部屋まで走った。
パーティー会場を裏から出て、螺旋階段を駆け上がり、金メッキのドアノブを乱暴に掴んで扉を開ける。
部屋に入って、間髪入れずに鍵をかけた。扉と、窓全部に。
だれも入ってこれないことを確認して、
隼人は声を上げて、泣いた。
この2年間散々泣いたのに、涙が止まらなかった。



 



苦しんでることに気づいてくれなかった
いつか気づいてくれると信じてたのに
父も、ビアンキも、誰も、
誰も助けてくれなかった


 




この日、隼人は大切なたくさんのことを、
すべてを諦めてしまった。



 

 



泣き止んだ頃には、隼人はいままでのすべてを涙と一緒に流してしまったようで、
それから一度もピアノを弾くことはなくなった。




 




 

 

続き











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